保阪メモ(思うこと・あれこれ)

  祖父と馬の涙   令和2年1月30日掲載
     保阪 正康

 母方の祖父は気性の激しい、しかし人情味のある人物であ
った。

 私は、札幌市郊外の祖父母の家に、昭和二十七年から三十
二年までの六年間、身を寄せていた。中学一年から高校二年
の時期にあたっている。祖父は六十代後半から七十代半ばで
あったが、すでに人生で成すべきとは成し終えていたから、
枯淡の境地にあるように、私には思えた。

 祖父の日々の生活は時間どおりに正確に動いていた。毎朝
五時すぎに起床し、十室あまりもある広い家の戸をすべて開
き、それから馬小屋に行き、馬に飼料を与え、その馬に乗っ
て畑を見て回るのであった。畑といっても膨大な広さであ
り、今はそのあたりは住宅地になっていて想像だにできない
のだが、番地でいっても一丁目という地域がすべて祖父の所
有地であった。多くの人びとに畑を貸していたわけだが、そ
の実りを自分の目で確かめるのである。

 家に戻ると新聞を丹念に読み、祖母が用意した朝食を食
べ、それからラジオから流れる「名演奏家の時間」という音
楽番組に耳を傾けた。そして祖母とともに畑に出ていき、自
分たちが食べるていどの米や野菜、それにいもなどをつくっ
た。昼は家で食事をし、午後二時ごろから 夕方まで畑に出
ていた。夕食のあとは必ず本を読んでいたが、知人や友人が
訪ねてくることも多く、二時間ほどそうした人たちと談笑す
るのが常であった。

 私が昭和史に関心をもち、多くの人の聞き書きをもとに昭
和史を語り継ごうと思い立ったのは、この談笑をしばしば見
ていたからであった。私にとって老人たちの懐古談は、その
ころ読み始めた小説などよりはるかに面白かったのである。

 あるとき、ときどき家に来るその町の政治的有力者が、祖
父と昔話を交しているとき、ふと会話を止めて祖母を見つ
め、そして祖母の名をあげ、「どうしてこのような立派な女
性とあなたは結婚できたのか」と尋ねた。私は、その会話に
関心をもち、祖父を見つめた。すると祖父は、顔を赤らめ口
をもぞもぞと動かすだけだった。祖母は、なにか言いたげで
あったが、黙って笑っていた。

 祖母は子供心にも確かに気品のある人と映った。整った顔
をしていた。ひたすら祖父に仕え、そして子供や孫には厳し
い女性だった。十人の子供を生み育て、そうした子供たちに
当時としては珍しい高等教育を受けさせ、そのために医学部
の教官や医師、それに官僚、教育者などに育てあげていた近
在では、秀才一家と噂されたが、それはほとんど祖母の力に
よった。

 私は、どうして祖父が祖母と結婚できたのか、それが気に
懸るようになった。母や伯父、叔母などに聞いてもくわしく
は誰も知らないのか、私を納得させる答が得られなかった。

 高校一年の夏休みが始まった日、私は午前五時すぎに目を
覚ましたので、祖父とともに家中の戸を開くのを手伝った。
すると祖父は、私に「どうだ、今日は馬に乗せてやろう」と
私を馬小屋に連れて行った。私はめったに馬小屋に入らなか
ったのだが、祖父とともに馬小屋に入ると、馬はまるで祖父
に甘えるように顔をこすりつけ、鞍をつけるよう催促した。
三年ほど祖父の手で育てられていたが、初めに私が馬の背に
乗ると、馬はそれを拒むように身体をふるわせた。すると祖
父は激しい口調で叱り、手で馬の身体を軽く叩いた。馬はお
となしくなったが、祖父が私の後ろに乗ると喜びをあらわす
ように、啼いたのである。

 馬がこれほど感情をもっているとは、私はまったく知らな
かった。
 私は、この日初めて祖父とともに畑を見回ったが、その途
中の草原に馬を止め、祖父と草の上に寝転んで朝日を見なが
ら、深い会話を交した。私が、「どうしておばあさんと結婚
したの」と日ごろの疑問を口にすると、祖父は「結婚?」と
いって、私の顔を見つめ、すでにそういう語を口にする年齢
になったのかと驚いたような表情になった。
「おばあさんと結婚できたのは、馬のおかげだな」
と言って、私にそのいきさつを語り始めた。

 祖父は石川県のある町で生まれた。貧乏下級武士の流れを
ひく家の四男だった。十七蔵のとき、一旗上げようと北海道
に単身やってきた。石狩川沿いのある地に居を定め、そこで
森林を伐採し、その木材を札幌市郊外の工場に川を使った
り、馬に積んで運んだ。明治三十年代の初めだったという。
やがて人を何人か使うようになり、その工場を任せられる地
位に就いたのだという。

 その町に祖母の一家が住んでいた。広島のある藩の藩医で
もあった祖母の家は、医院を開き、開拓者たち の健康管理
にあたっていた。祖母はその家の長女であった。その祖母は
祖父とはまったく異なる環境で育っていた。なにしろいつも
決まって午後三時すぎには使用人が馬をひき、それに祖母が
乗り散歩をするのが日課だった。暑い日には陽傘をさしてい
たというのである。

 祖父は祖母を見初めたが、近づく手段がない。恋心は募る
ばかりだ。そこで考えたのが、祖母の散歩のときにその前に
寝転んで馬を止め、祖母を口説くことだった。
「それでどうなったの」
と私が尋ねると、祖父は「お前がいるのだからうまくいった
というわけだ…・」と笑った。 そして、私を見つめ「こう
いうことはお母さんや伯父さんや叔母さんにも言ったらだめ
だよ」と真顔で制した。私がうなずくと、次のようにつけ加
えた。
「あのとき、使用人にはなんども殴られたが、おばあさんの
乗った馬がまったく動かなかった。馬が暴れて走りだした
ら、大事になっていたな。だからあのときの馬には感謝して
いるんだよ」

 私は、祖父から聞いたこの秘密を長じるまでロにしなかっ
た。

 祖父は、私が祖父母の家からはなれ、両親が一軒家を構え
弟妹たちと住むようになってまもなく脳溢血で倒れ、帰らぬ
人となった。葬儀のとき、馬小屋からは祖父の愛馬が悲しそ
うな声で啼き続けていた。私が一人で馬小屋に入り、祖父を
真似て馬の首を軽く叩くと静かになった。だが馬の目には涙
が浮かんでいた。その涙が目尻に貯っていた。

 馬がこれほど感情をもつ生き物なのか、改めて感に堪えな
かった。祖父の死後、この馬は祖父の友人にもらわれていっ
た。その日、馬小屋からはなかなかでなかったという。やが
て誰のいうことも聞かない暴れ馬だと疎んじられ、次々と人
の手にわたったという噂が耳に入ってきた。私はその噂にふ
れるたびに目尻の涙を思いだして密かに泣いた。

日本エッセイスト・クラブ編

『木炭日和(99年版・べストエッセイ集)」(文藝春秋、一九九九年)より




2018年 年頭所感 (2018.1.8)
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★私の記憶の中の「生者」たち。 (2011.11.10)
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★人災防ぐ知恵後世に 北海道新聞掲載より(2011.11.4)
hokkaido.p.2011.11.4.pdf
                                      

★月刊『文藝春秋』(2011年5月号)に大要次のような原稿を書きました。(2011.6.5)
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★最近の私の思うこと、以下に記します。(2011.6.5)
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